声優、俳優、ナレーターとして、八面六臂の活躍を見せる津田健次郎さん。1971年6月11日、大阪府に生まれ、現在はアンドステアに所属しています。
彼の名を一躍有名にした『呪術廻戦』の七海建人や、『ゴールデンカムイ』の尾形百之助といった役柄。さらには実写ドラマ『最愛』や映画『沈黙の艦隊 北極海大海戦』での存在感ある演技。声優という枠にとどまらず、舞台、映像監督、プロデューサーと、その才能はとどまるところを知りません。
50代を迎え、なおも進化し続ける津田さん。その多彩なキャリアの背景には、幼少期を過ごしたインドネシア・ジャカルタでの体験が深く関わっているようです。この記事では、ジャカルタでの日々が、今日の津田健次郎という表現者をいかにして形作ったのか、そのルーツを紐解いていきます。
映画に夢中になったジャカルタでの少年時代

津田さんがジャカルタで暮らしたのは、父親の仕事の都合で1歳から小学校2年生(およそ7歳)まで。人格が形成される大切な時期を、異国の地で過ごしました。
当時のジャカルタは、今ほど娯楽にあふれていたわけではありません。ましてや家庭用ビデオが普及する前の時代。そんな彼にとって最高のエンターテインメントは、映画館の大きなスクリーンでした。
母親や映画好きの伯父さんに連れられて、日本のヒーロー映画やハリウッドの大作に胸を躍らせる日々。特に、映画館の株主優待チケットを持っていた伯父さんのおかげで、日本に帰国してからも映画館通いは続いたそうで、これが彼の映画への愛を決定的なものにしました。

また、ジャカルタでの生活を通して、津田さんはインドネシア語をネイティブのように話せるまでになったといいます。現地の日本人学校に通いながら、両親と2歳年上のお兄さんと過ごしたこの時間は、彼の感受性を豊かにし、世界を広げるかけがえのない経験となったのです。
ジャカルタでの経験が才能を開花させた4つの理由

では、ジャカルタでの幼少期の経験は、声優、俳優、ナレーターとしてのキャリアに具体的にどのような影響を与えたのでしょうか。4つのポイントから探ってみましょう。
1. 映画への深い愛が、表現者としての礎を築いた
ジャカルタでの映画体験は、津田さんのエンターテインメントへの情熱、とりわけ映画への愛を育む大きなきっかけとなりました。少年時代にスクリーンで観たヒーローたちの活躍や壮大な物語は、彼の想像力をかき立て、物語の世界へと引き込みました。
視覚と聴覚で物語を浴びるように楽しんだ原体験が、声優としてキャラクターに命を吹き込む感情移入の深さや、俳優としての演技の土台を築き上げたのでしょう。

例えば、『呪術廻戦』の七海建人役で見せた、あの落ち着いた低音と抑制の効いた感情表現。そこには、映画から吸収したであろうストーリーテリングの巧みさが息づいています。彼が映像監督(『ドキュメンターテイメント AD-LIVE』やWOWOW『アクターズ・ショート・フィルム』など)としても手腕を発揮しているのは、幼い頃から育んできた映画への深い理解と、物語を自らの手で紡ぎたいという情熱の表れなのかもしれません。
2. 異文化での生活が、多角的な視点を育てた
幼少期にインドネシア語をマスターし、日本とは全く違う環境に順応した経験は、津田さんに柔軟な思考と物事を多角的に見る視点を与えました。
声優として、『スター・ウォーズ』シリーズのカイロ・レン(吹き替え)や『ゴールデンカムイ』の尾形百之助のような、心に複雑な闇を抱えるキャラクターを演じる時。そこでは、異文化や多様な価値観を肌で知っている経験が、役柄に深みを与える上で大きな助けとなっているはずです。
あるインタビューで「1人で何かをするのが好きだった」と語っている津田さん。ジャカルタの限られた娯楽環境は、自然と自分自身と向き合う時間を与え、内省的な性格を育んだのかもしれません。その静かな探求心は、役作りにおける鋭い洞察力や、NHK連続テレビ小説『エール』のナレーションで聞かせた、心に染み入るような落ち着いた語り口にも繋がっているように思えます。
3. 多言語環境が、唯一無二の「声」を磨いた

ジャカルタでの生活でインドネシア語を身につけた経験は、津田さんの言語感覚を研ぎ澄まし、声の表現力を豊かにする一助となりました。
声優やナレーターにとって、言葉は命です。異なる言語に触れる経験は、日本語の発音やイントネーションをより客観的に捉えるきっかけとなり、表現の引き出しを増やしてくれます。津田さんの代名詞ともいえる魅力的な低音ボイスと、役柄によって全く違う顔を見せる声の使い分け(『テニスの王子様』の乾貞治役から『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』の海馬瀬人役まで)の巧みさには、この幼少期の体験が息づいているのでしょう。
大阪出身ならではの関西弁はもちろんのこと、『にほんごであそぼ』や『情報7daysニュースキャスター』で見せる知的な語り口。ジャカルタでの多言語環境が、彼の言葉への好奇心を刺激し、見事な適応力となって花開いたのではないでしょうか。
4. 自己と向き合う時間が、プロ意識の根幹を成した
「小学校に入って少し社会性は出たけれど、基本的には1人でいましたね」。ジャカルタ時代をそう振り返る津田さん。限られた娯楽の中で過ごした孤独な時間は、自分自身と深く対話する機会となり、後のプロ意識を育む土壌となりました。
役作りについて「稽古を重ねるしかない」とストイックに語る彼の姿は、多くの人が知るところです。経済的に苦しい下積み時代を乗り越え、『テニスの王子様』や『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』でブレイクを果たし、俳優としても『最愛』や『大奥』で高い評価を獲得。その弛まぬ努力と挑戦を支えているのは、異国の地で自分なりの楽しみを見つけ、逆境に適応してきた経験から培われた、強い精神力なのかもしれません。
まとめ
津田健次郎という稀代の表現者は、ジャカルタでの多感な少年時代にその原点がありました。
映画館で育まれた情熱、異文化に飛び込んだ適応力、多言語環境で磨かれた言語感覚、そして自分と向き合った内省的な時間。そのすべてが複雑に絡み合い、声優・俳優・ナレーターとしての彼の深い魅力を作り上げています。
時折話題になる『鬼滅の刃』への出演情報は誤りですが、それほどまでに彼の声が多くの作品で求められている証でしょう。彼の真価は、『呪術廻戦』や『ゴールデンカムイ』といった代表作、そして数々の実写作品での圧倒的な存在感にこそ表れています。
ジャカルタという異文化と、スクリーンの中の物語に育まれた表現者、津田健次郎。50代にしてなお、彼の進化はこれからも私たちを魅了し続けるに違いありません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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