今、日本映画界で最も目が離せない女優、河合優実さん。2025年には朝ドラ『あんぱん』のヒロインを務めるなど、その勢いはとどまることを知りません。
『あんのこと』や『不適切にもほどがある!』で見せた圧巻の演技力から「令和の山口百恵」とも呼ばれる彼女ですが、その才能は一体どこで育まれたのでしょうか?
この記事では、彼女のルーツである練馬での子供時代から、運命を変えた衝撃のデビュー秘話まで、その魅力の源泉に迫ります。
表現者・河合優実の原点。練馬で育んだ「お笑い」と「ダンス」

河合優実さんの物語は、緑豊かな東京の練馬区で幕を開けます。2000年12月19日、3姉妹の長女として生まれた彼女の家庭は、いつも映画や表現活動で溢れていました。映画好きの両親と、社会人演劇の経験がある母親。そんな環境が、彼女の豊かな感性を自然と育んでいったのでしょう。

彼女の表現力の原点として欠かせないのが、なんと国民的お笑いグループ「ザ・ドリフターズ」です。自宅にはドリフのDVDボックスが2つもあり、「本当にそれを見て育った」と本人が語るほど。親戚が集まるお正月には「1曲歌いなさい」と促されるような、人前で何かを披露することに全く壁のない家庭で、彼女のエンターテイメント精神は磨かれていきました。
そして、彼女の人生を大きく動かすダンスとの出会いは小学3年生の時。先にダンススタジオに通っていた妹の影響で始めたヒップホップダンスに、またたく間に夢中になります。バレエの経験はありませんが、この頃から音楽に合わせて自分を表現する喜びに目覚めていたのです。しなやかで存在感のあるプロポーション(身長166cm)も、この頃からの積み重ねが土台となっています。
ダンスに魂を燃やした高校時代と「モテ伝説」

中学時代はバスケ部に所属し、一時ダンスから離れますが、表現への情熱が消えることはありませんでした。
その想いが爆発したのが、都内有数の進学校である東京都立国際高校時代です。彼女はダンス部に所属し、3年間、文字通りダンスに明け暮れます。振付から音源編集、衣装制作まで生徒が主体となって行う部活で、河合さんはリーダーとして仲間を牽引。その活躍ぶりと、顔が似ているという理由で文化祭で山口百恵を熱唱したエピソードは、母校で「爆モテJK」として伝説になっています。

この頃に観たミュージカル『コーラスライン』に心を揺さぶられ、漠然としていた「表現者」への道が、「役者」という明確な目標に変わったのです。
運命の出会い。映画『あみこ』が拓いた女優への扉

高校3年生の冬、彼女の人生を決定づける出来事が起こります。のちに現在の所属事務所(鈍牛倶楽部)へ自ら応募し、芸能界への一歩を踏み出すのですが、その情熱に火をつけたのは一本の映画でした。
その作品こそ、山中瑶子監督の『あみこ』。
ポレポレ東中野のスクリーンで観た『あみこ』に魂を鷲掴みにされた彼女は、居ても立ってもいられず、監督に「女優になります。いつかあなたの映画に出たい」という熱い想いを綴った手紙を渡します。この大胆な行動が、彼女の運命を大きく動かしたのです。

この出会いの衝撃は、彼女が寄稿したコラムからも伝わってきます。「冷蔵庫の隣にあみこがいる。いつもじっとこちらを見ている」と詩的に綴り、映画がどれほど彼女の日常に深く入り込んでいたかがわかります。
そして、この時蒔いた種は見事に花開きます。手紙を渡してから数年後、彼女は山中監督の新作『ナミビアの砂漠』への出演を果たし、カンヌ国際映画祭の舞台に立ったのです。
まとめ:日常のすべてが、輝きに繋がっている
河合優実さんのデビューまでの軌跡を辿ると、決して特別なことばかりではありませんでした。練馬という街で育ち、ドリフを観て笑い、ダンスに夢中になった日々。その一つひとつの積み重ねが、彼女の豊かな表現力を形作っています。
ごく普通の日常から生まれた情熱を、自らの行動で「運命」に変えてみせた彼女の物語は、私たちに勇気を与えてくれます。これからも日本映画界を背負っていくであろう彼女の唯一無二の輝きを、ぜひスクリーンで確かめてみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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