戦後日本の復興を力強く牽引し、内閣総理大臣として手腕を振るった岸信介。
官僚としてもその名を馳せ、日米安全保障条約の改定を断行するなど、外交面でも独自路線を貫きました。
毀誉褒貶相半ばする人物としても知られています。
そんな岸信介ですが、戦前はエリート官僚として要職を歴任し、太平洋戦争開戦時には東條英機内閣の閣僚でした。
そのため、終戦後にはA級戦犯容疑で逮捕されています。
しかし、彼は3年半の拘留後、不起訴となり釈放されました。
一体なぜ、彼は逮捕され、そして釈放されたのでしょうか?
戦後日本の社会体制に大きな影響を与えた岸信介の足跡を辿ることは、現代の日本を理解する上でも非常に重要です。
もし彼がいなければ、私たちが暮らす今の日本は全く違った姿になっていたかもしれません。
それでは、稀代の政治家、岸信介の生涯を紐解いていきましょう。
岸信介の生い立ちと戦前のキャリア
エリート官僚への道

- 生誕:1896年(明治29年)11月13日、山口県に生を受けました。
- 学歴:東京帝国大学法学部を卒業後、農商務省に入省。
その後、商工省や企画院といった官庁でキャリアを積み、若くしてその才能を高く評価される存在でした。
企画院・商工省での活躍
経済政策のキーパーソン
岸信介は、戦前の日本が国家総動員体制を敷く中、経済政策の分野で中心的な役割を担いました。
統制経済の中枢
企画院では、物資動員計画や経済統制の立案に携わり、当時の統制経済下における官僚機構の中核を担う人物として活躍しました。
こうして岸信介は、政界・官界の裏側で強い影響力を持つようになり、「昭和の妖怪」という異名で呼ばれるほど、その存在は広く知られるようになっていきました。
戦時下の政治的立場と東條英機内閣
東條内閣の中枢

閣僚としての重責
太平洋戦争開戦とともに成立した東條英機内閣において、岸信介は商工大臣や厚生大臣などを歴任。
特に商工大臣としては、戦時下の資源・物資の管理を担い、日本の戦時経済を支える重要な役割を果たしました。
戦争責任を問われる立場
A級戦犯の対象
東條英機内閣は、太平洋戦争を主導した政権として、戦後の東京裁判でA級戦犯の中心とされました。
岸信介も内閣の主要閣僚であったことから、戦争遂行に関与した責任を問われる立場となりました。
官僚としての職務と戦争
岸信介は、「政治家」というよりも「官僚」としての側面が強かったとも言われています。
しかし、戦時経済の統制は、戦争の継続と拡大に深く関わっていたことも事実です。そのため、東京裁判においても彼の存在は重要視されました。
東京裁判:逮捕とその後の長い拘留
A級戦犯容疑での逮捕

GHQによる戦争責任追及
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は、占領政策の一環として戦争責任を追及するため、極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)を開廷しました。
岸信介は、東條英機内閣の閣僚であったことから、A級戦犯容疑で逮捕・収監されました。
逮捕の時期
1945年(昭和20年)の敗戦後、戦争指導に深く関わったと判断された政治家、軍人、官僚たちが次々と連行される中、岸信介も同年12月頃に逮捕されました。
巣鴨プリズンでの日々

拘留場所
岸信介は、東京・巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に収監され、3年半もの間、拘束されることになります。
ここには、東條英機をはじめとするA級戦犯の被告や容疑者が収容されていました。
苦悩の日々
死刑になる可能性も囁かれ、「国賊」として世間から厳しい目を向けられながら、岸信介は長い獄中生活を送りました。
なぜ釈放されたのか?不起訴処分の背景
突然の釈放

起訴されず
東京裁判では、A級戦犯容疑で逮捕された全員が起訴されたわけではありません。
岸信介は、最終的に不起訴となり、1948年12月頃(または1949年初め頃)に釈放されました。
GHQ・連合国側の方針転換
釈放の背景には、戦後間もなく始まった「冷戦」の影響がありました。
ソ連をはじめとする共産主義勢力との対立が深まる中、アメリカは日本を早期に復興させ、共産主義に対する防波堤にしたいという思惑を強めていました。
- 戦前・戦中の指導者を全て排除するのではなく、経済や行政に詳しい人物を活用して、日本を復興させる方が得策だと判断したのです。
- 岸信介は、官僚として経済政策に長けていたため、アメリカ側も「利用価値がある」と判断したと言われています。
証拠不十分という見方も
もう一つの説として、岸信介が東京裁判で裁かれるほどの、直接的な戦争犯罪に関与した証拠が十分に見つからなかった、というものがあります。
経済統制や政府の戦争方針には深く関わっていたものの、「戦争犯罪」として立証することは難しかった、という見解も存在します。
公職追放とその後

一時的な追放
岸信介は、戦後、GHQによる「公職追放」を受け、一時的に政界・官界から追放されました。
公職追放は、戦争に関わった政治家や軍人、官僚を再び要職に就かせないための措置でしたが、これも後に解除されます。
政界復帰への道
公職追放が解除されると、岸信介は政治家として復帰する道が開かれ、後に内閣総理大臣へと上り詰めることになります。
戦後の政治活動、そして総理大臣へ
政界復帰から総理就任まで

復活の舞台
1952年頃に公職追放が解除され、吉田茂政権下で保守政治の再編が進む中、岸信介は政治活動を再開しました。
自民党結成と影響力
1955年、自由党と日本民主党が合流して自由民主党(自民党)が結成されると、岸信介は党内の有力者として頭角を現します。
戦前・戦中に培った人脈や政治力を駆使し、1957年には内閣総理大臣に就任しました。
日米安保条約改定と評価

安保闘争
岸信介は、総理大臣在任中(1957~1960年)に、日米安全保障条約の改定を強力に推進。
しかし、これに対し、大規模な反対運動(「安保闘争」)が起こり、岸内閣は激しい批判と混乱に晒されました。
外交における功績と批判

岸信介は、対外的にはアメリカとの軍事同盟を強化し、国際社会における日本の防衛と外交の再構築を目指しました。
しかし、国内では「再軍備」につながるのではないかという懸念が広がり、大きな社会的反発を招きました。
辞任、そしてその後
1960年、日米安保条約は改定・批准されましたが、大規模デモや世論の反発を受け、岸信介は同年7月に内閣総辞職を表明。
その後も、岸信介は政界に影響力を持ち続け、「昭和の妖怪」と呼ばれたその存在感を示し続けました。
岸信介の逮捕と釈放をめぐるポイント

- 逮捕理由
東條英機内閣で商工大臣や厚生大臣などの要職を務め、戦時経済や戦争遂行に深く関与したため、戦争責任を問われA級戦犯容疑者として逮捕されました。 - 釈放理由
冷戦下、アメリカが政策転換(反共主義・日本復興)を行い、戦時中の経済政策に精通した人材を活用する方針に転換したことが大きな要因です。
戦争犯罪として起訴するための明確な証拠が不十分であったため、不起訴処分となり、1948年末頃に釈放されました。 - 戦後の復活
公職追放を経験しましたが、後に解除され政界に復帰。その政治手腕と人脈を活かし、1957年に内閣総理大臣に就任しました。
日米安保条約改定など、外交・経済面で戦後日本に大きな影響を残しました。 - 評価の二面性
戦前・戦中の活動については、「戦争責任」や「国賊」といった批判があり、東京裁判でA級戦犯容疑者であったことは、現在でも議論の対象となっています。
一方で、戦後復興を推進し、日本の経済成長を後押しした政治家として評価する声もあり、毀誉褒貶相半ばする人物として認識されています。
おわりに
岸信介は、戦前は経済官僚として日本の統制経済を主導し、戦中は東條英機内閣の閣僚を務め、戦後はA級戦犯容疑で逮捕されながらも不起訴となり釈放。
公職追放を経て政界に復帰し、内閣総理大臣にまで上り詰めた、波乱万丈の人生を送った政治家です。
彼の歩みは、冷戦期の国際政治、日本の国内事情、そして個人の政治的力量など、様々な要素が複雑に絡み合っており、単純な評価では捉えきれない奥深さがあります。
戦争責任をめぐる議論は、現在でも続いており、岸信介の果たした役割に対する評価は分かれるところです。
しかし、戦後日本の対米関係、経済復興、政治再編に深く関わり、日本の歴史に大きな足跡を残したことは間違いありません。
彼の逮捕から釈放までの経緯を振り返ることで、個人としての運命だけでなく、戦後日本の政治体制を形作った国際的・国内的な要因が見えてきます。
以上が、岸信介の戦前・戦中・戦後の活動、そして東京裁判での逮捕から釈放に至るまでの道のりです。
戦争責任、東京裁判、戦後政治など、さらに深く掘り下げていくことで、当時の国際情勢や国内情勢、そして彼自身の思想や政策について、新たな発見があるかもしれません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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