2015年からはNHK紅白歌合戦に9年連続で出演を果たしている演歌歌手の山内惠介さん。
その上品で爽やかな容姿から「演歌界の貴公子」と呼ばれ、力強い歌唱は多くのファンを魅了しているようです。
今回、山内惠介さんの、今の評判や人柄につながる彼の生い立ち、若い頃の様子やファン層について興味を持ちました。
山内惠介さんの事を調べていきたいと思います。
それでは、ご案内します。
山内惠介の評判は?
最近山内惠介さんにハマってるんですけど、自分が今まで好きになってきたものとジャンルがだいぶ違くてまだあたふたしてる、、、
— キース (@AvIFjw4QlRmqlyS) January 20, 2024
紅の蝶の唄盤は買うってことはハッキリ決めてる
母が山内惠介の大ファンで、コンサート行ってきたよ〜!ってウキウキで電話してきた。推しがいるって元気の源よね✨
— ぴかおり@ピカチュウLOVE (@guragura3) April 9, 2023
実家にて徹子の部屋見てた☺️
— †妖精の陽だまり†ミユキン (@IRIAMmiyukin) January 22, 2024
山内惠介さんのこころ万華鏡って曲、はじめて聞いたんだけどめっちゃ好き🤤
これは覚えよ( ◜ω◝ )
山内惠介さん、このように皆さんから、親が大ファンだったり、初めて歌を聴いて好きになったり、魅力にハマったと喜びの声が投げかけられています。
どのようなお方なのか調べていきましょう。
山内惠介の生い立ち

山内惠介さんは、1983年、昭和58年に福岡県糸島郡前原町(現在の糸島市)で生まれました。
昭和生まれの山内惠介さん、幼少期に、はやりの演歌を歌っていました。
幼少期に美空ひばりの歌を熱唱し年配者から大人気
5、6歳の頃、母親の好きだった美空ひばりさんの「みだれ髪」を初めてカラオケで歌います。
覚えたままに「な~みだを~しぼる~」って部分を裏声にして歌ったら、みんなが「すごい!」と褒めて喜んでくれます。
祖父母も母も親戚も、山内さんが演歌を歌うと、時には涙をボロボロ流して感動してくれました。
そんな経験を重ねるうちに、幼いながらに歌のもつ力を感じていたようです。
カラオケ大会で作曲家からスカウト、そして上京

転機になったのが1999年高校1年の時に出場した福岡県のカラオケ大会。
この大会は単なるまちののど自慢大会ではありませんでした。
演歌界をリードする作曲家が聴きに来る、新人発掘の意味合いのある大会です。
このカラオケ大会に母方の叔父が本人に内緒で応募していて、そこで優勝したのです。
この大会には、後に氷川きよしさんらを輩出したことで知られる作曲家水森先生が審査していました。
『今すぐ東京に持って行きたい逸材』と評していただくと、僕がコメントする前に客席にいた母が『持って帰ってー』と絶叫していました。
そして、その作曲家の水森英夫さんから直々にスカウトされます。
この大会を機に、ほぼ月1回のペースで単身東京に行っては水森先生からレッスンを受け、翌年には上京。
スカウトから約1年半後の2001年4月には、現役高校生でデビューを果たしました。
無名時代の若い頃、昔の山内惠介

山内惠介さんは、2001年演歌「霧情」でデビューをしても、7~8年間ほどは、思い描いたような演歌歌手としての華々しいステージに立つことはありませんでした。
デビュー直後からのつまづき

山内惠介さんは、歌の基礎も学ばずにデビューしていました。
その一つに歌い方の癖のこぶし。
幼少時から美空ひばりさんに憧れて歌ってきたので、脱・美空ひばりに時間を要しました。
自分らしい歌い方を見つけるまで苦戦の日々、下積み時代が短かったこともあって、デビュー後すぐにヒットしませんでした。
芸能人としての自覚と覚悟が至らず
挨拶だって蚊の鳴くような声で、相手に伝わらない。
それなのに山内さんは、これから歌もヒットしてテレビにもいっぱい出られて、『紅白』にも出場するようになるんだろうな~と、当たり前のように思っていました。
1年、2年、3年と経った時に、
あれ? 思い描いていたのと、ちょっと違うな
4年めからは、新曲を出してもテレビや雑誌に出る機会がグンと減り、キャンペーンが終わればすっかり暇になり、歌う場所がありません。
そんな時の駆け込み寺は作曲家の水森先生でした。
コンビニエンスストアやスターバックスコーヒーなんかでアルバイトをしてみたいと言ったり、最後には「やめたい」とまで・・
その時、先生から、
惠介はデビューしているんだから、ほかの仕事をすることはできないんだよ
歌手活動の中で己を磨く方法を見つけなければいけない
お客様に芸を磨いてもらいなさい!
と諭されたんです。
そこで、もう後戻りはできないんだ、と山内惠介さんは、腹をくくりました。
実家との連絡も断つ
どん底だった時期も実家には頼ることができませんでした。
山内さんは、末っ子で思い切り甘やかされて育ったのを先生もスタッフもよくわかっています。
その為、デビュー後は親と連絡を取らないようにと指示されていました。
携帯電話の番号もメールアドレスも家族に知らせずに全部変え、6年間は音信不通の状態にしました。
そうして親離れしなければ、歌い手としてダメになっていました。
故郷と音信を絶って丸6年が過ぎ、初めて年末に帰省した時のこと。

山内さんがいつものように家族と一緒に『紅白歌合戦』を見ようとしたら、テレビの置いてある部屋が真っ暗でした。
“『紅白』始まってるよー”と家族に呼びかけても、「ああ、うん」とか言って、誰も見に来ない。
そこでピンと来ます。
家族は『紅白』に出られない山内さんに、気を使っている・・。
その時まで、大晦日に実家に帰っていてはダメだと気づきませんでした。
自分が『紅白』に出る側になって、家族にもファンにも歌を届けなきゃいけないなぁと。
それ以来、年末年始には故郷に帰らなくなりました。
山内惠介のブレイクのきっかけ

山内惠介さんは、デビュー初期から北海道のラジオ番組の仕事があり、定期的に北海道を訪れています。
そのご縁で北海道が舞台の曲を歌うことが増えました。
九州男児の山内さんが、北海道を舞台にした歌の世界を表現することになります。
その差を埋めるべく何度も北海道に足を運び、地元の人々とも熱心に交流を重ねました。
北海道を舞台にした演歌『風蓮湖』がヒット
2009年、その北海道を舞台にした演歌『風蓮湖』で開花します。
風蓮湖は、根室半島の付け根にあるオホーツク海に面した広大な海跡湖。
白鳥の飛来や楢の木立が有名です。
九州と北海道の四季の違いを肌で感じ、その新鮮な思いを歌にのせると
「この曲を通して旅をしているような気分になる」
と北海道を中心に注目されていきます。
そしてオリコンチャートで50週にわたってランクインするロングヒットとなり、翌年には北海道根室市の「味覚観光大使」にも任命されました。
山内さんにとっては、北海道は第二のふるさととまで自信を持って言えるところになりました。
演歌トリオ「イケメン3」に選抜

同じく2009年に番組『NHK歌謡コンサート』で北川大介、竹島宏とともに演歌トリオ「イケメン3」に選ばれました。
月に1回、テレビ出演できるようになったことで、「山内惠介」を知っていただける機会がぐんと増えてきました。
演歌から歌謡曲へ広げる
さらに、2011年に、音楽面でのターニングポイントが訪れます。
いつもの演歌ではなく、初めて本格的に歌謡曲の世界に挑戦しました。
歌謡曲「冬枯れのヴィオラ」をリリース。
冷たい木枯らしに襟を立てた黄昏れ男が孤独を歌う。
この曲を出してから
え、これ山内惠介が歌ってるの!?
コブシ回すだけじゃなくて、こういう歌も歌えるんだ!
という声をいただけるようになりました。
この歌謡曲を歌うようになってから、新たに現役世代の男性ファンが増えてきました。
この曲を含む銀幕歌謡シリーズを歌ったことが
その後の仕事の幅が広がって行き、山内惠介さんにとっては転機になった1曲になりました。
山内惠介の人柄

コロナ禍では、山内惠介さんネット機器に挑戦しファンとの絆を保ちました。
コロナの影響で、ガラケーをスマホに変える決断をしました。
誰にも会えないし、故郷にも帰れないから、ビデオ通話がしたくて(笑)。
コロナがなければ、未だにガラケーのままだった。
古風な人間だし、不器用だし、“演歌歌手はガラケーだ!”って思いがありました。
スマホじゃなくてもぜんぜん困ってなかった。
LINEもしてなかった。
でも使ってみたら、ビデオ通話とか写真とか“こんなに簡単にできるものなんだな”ってびっくり。
スマホを買った時は、ビデオ通話をかけまくったようです。
山内惠介さんは、このコロナ禍にファンの方々との繋がりを維持する為、さらなるネットメディアに挑戦しました。

YouTube「山内惠介の惠チャンネル」で沢山の料理の腕前を披露、ライブ配信をしています。
コロナ禍でコンサートが軒並み中止になって、本当に気持ちが落ち込んだのです。
何かできることはないかと考えて、料理に挑戦してみようと思ったのがきっかけです。
さらにコロナ禍にあってオンラインライブを開催
『山内惠介無観客オンラインライブ“8時だよ!いらっしゃ~い!”』
ストリーミング・サービスを使ってファンとの交流を確かなものにしました。
ファンの方々も同様にネット機器に挑戦し、山内惠介さんに会いに来ていたのですね。
演歌歌手は、ガラケーだ!と豪語していた山内惠介さん。
苦手なデジタル機器に果敢に挑戦して、大切なファンの方々とのつながりを広げることができたのも、コロナのおかげかもしれません。
山内惠介さんが、将来に渡って長く歌っていくための経験を、この時期に踏ませてもらっていたと思うと、決して悪いことばかりではないですね。
山内惠介のファン層について

紅白歌合戦に連続出場の山内惠介さんは、世代別という見方をすると意外にも一番人気は30代男性とのデータ分析がありました。
30代男性にとても人気、女性では同年代から母親世代以上まで幅広い年齢層の支持を受けています。
そんな山内惠介さんのタレントパワーのスコアを見てみると、女性よりも男性の方が若干高いことが伺えます。
ライブからは熱烈な女性ファンの歓声が目立っていますが、彼を「知っている×見てみたい・聴いてみたい」人は、男女とも同じぐらいに多いようです。
もう少しその年代別に見ると、女性では彼と同年代と親世代の50代後半から60代が多い、調査はされていませんがライブの様子から70代以上にも人気があることがわかります。
男性では山内惠介さんに近い世代の30代が特に高い。

引用記事 山内惠介“実は30代男性にとても人気、女性では同年代から母親世代以上まで”
歌謡曲として披露し「冬枯れのヴィオラ」を歌い始めたあたりから、男性30代が新たなファンとして加わったと思われます。
女性ファンが多いのは、上品で爽やかな容姿に力強い歌唱、嫌味がなく番組のMCでも軽快なジョークを飛ばしつつ、出過ぎず一歩引いた姿が好感度を上げています。
様々な面でジャンルレスに活躍する氷川きよしの影に隠れがちですが、山内惠介さんはしっかりと地道にファンを開拓している様子が伺えます。
プロフィール
- 本名:山内恵介(やまうちけいすけ)
- 生年月日:1983年5月31日生
- 身長:身長178㎝
- 血液型:O型
- 星座:双子座
- 出身地:福岡県前原町出身(現・糸島市)
- 芸名:本名同じ
1983年福岡県生まれ。1999年、16歳の時に出場した県内のカラオケ大会で、作曲家の水森英夫さんにスカウトされ、翌年上京。2001年4月にシングル「霧情」でデビュー。2009年9月発売の「風蓮湖」がロングヒットを記録し、2010年5月に風蓮湖がある北海道の「根室味覚観光大使」に、2015年よりNHK紅白歌合戦に連続出場。2020年11月には日本武道館でのコンサートを開催。“演歌界の貴公子”の異名を取り、映画や舞台、ラジオと活動範囲は幅広い。2023年3月発売の23枚目のシングル「こころ万華鏡」発表。
【演歌歌手】山内惠介の評判や人柄を徹底調査!まとめ
今回、山内惠介さんですが、今の評判や人柄につながる彼の生い立ち、若い頃の様子やファン層について調べてみました。
いかがでしたでしょうか?
山内惠介さんは、甘く伸びやかに広がる歌声と、スマートなルックスから“演歌界の貴公子”として多くのファンを魅了します。
熱唱とユーモアあふれるトークで観客の心をわしづかみにする山内さん。
ステージでは演歌のみならず、ポップスや歌謡曲と幅広い歌を届けています。
そんな山内惠介さんのこれからの活躍に期待いたします。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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