1923年関東大震災:正力松太郎が果たした役割と「闇」

正力松太郎(1885-1969)は、日本のメディア史やスポーツ史に名を刻む実業家・政治家であり、警察官僚としての経歴を持つ異色の人物です。

読売新聞社主、日本テレビ初代社長、そして東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)のオーナーとして知られ、戦後日本の報道や放送の基盤を築いた立役者の一人です。

しかし、彼の人生において特に注目すべきエピソードの一つが、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災との関わりです。

この震災は日本史上最大級の自然災害であり、正力はその渦中で重要な役割を果たしつつ、後に議論を呼ぶ行動を取った人物として歴史に記録されています。

ここでは、正力松太郎の震災前後の活動を時系列に沿って、彼が関東大震災で何をしていたのかを解説します。

目次

震災前の正力松太郎:警察官僚としてのキャリアと背景

正力松太郎は1885年、富山県に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、1913年(大正2年)に警視庁に入庁しました。

当時の日本は、第一次世界大戦後の経済成長や社会主義運動の高まりなど、社会が大きく変動する時期にあり、治安維持が重要な課題とされていました。

正力は刑事畑で頭角を現し、特に1918年(大正7年)の米騒動では暴動鎮圧に辣腕を振るい、警視庁内での地位を確立しました。

1923年6月には警視庁官房主事に昇進し、特別高等警察(特高)の設立にも関与。

この部署は社会主義運動や労働運動を監視・弾圧する役割を担い、正力は政府の方針に沿って日本共産党への大規模な検挙を指揮しました。

震災直前の正力は、警視庁の実力者として、治安維持と社会秩序の確保に全力を注いでいたのです。

この背景が、震災時の彼の行動に大きな影響を与えることになります。

関東大震災当日とその直後:正力の役割とデマの流布

1923年9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の関東大地震が発生し、東京・横浜を中心とする南関東一帯に壊滅的な被害をもたらしました。

死者・行方不明者は約10万5,000人に上り、火災や津波が被害を拡大させました。

この未曾有の混乱の中で、正力松太郎は警視庁官房主事として治安維持の最前線に立ちました。

震災当日、正力は警視庁に駆けつけ、情報収集と対応策の立案に追われました。

しかし、通信網の途絶や被災地の混乱により、正確な情報が得られない状況が続きます。

この中で、震災翌日の9月2日以降、正力は「朝鮮人が暴動を起こしている」「井戸に毒を入れた」といった噂を、新聞記者を通じて意図的に広めるよう指示したとされています。

このデマは、震災後の恐怖と疑心暗鬼に駆られた市民の間に急速に拡散し、結果として関東大震災朝鮮人虐殺事件を引き起こす一因となりました。

朝鮮人虐殺事件と正力の関与

関東大震災発生後、「朝鮮人暴動説」を信じた自警団や警察、軍の一部が、朝鮮人や中国人、社会主義者らを標的にした暴力行為に走りました。

歴史家の推計によると、約6,000人以上が虐殺され、東京や横浜だけでなく、千葉、埼玉、群馬など広範囲で凄惨な事件が記録されています。

例えば、亀戸では労働運動家と共に朝鮮人が殺害され(亀戸事件)、甘粕正彦による憲兵隊の介入(甘粕事件)も発生しました。

正力のデマ流布がこのような惨劇を招いた背景には、当時の社会状況があります。

震災による混乱に加え、日本内地での朝鮮人差別や社会主義への敵視が根強く、こうした感情がデマによって爆発したのです。

正力は後に、この虚報が「震災の衝撃と通信途絶による人心の疑心錯覚」から生じたと弁明していますが、彼の責任を問う声は後世まで続いています。

震災後の正力:キャリアの転換と影響

震災から数カ月後の1924年1月、正力は警視庁警務部長に昇進しますが、同年12月の虎ノ門事件(摂政宮狙撃事件)の責任を問われ、懲戒免官となります。

しかし、恩赦により処分が取り消されると、彼は官界を離れ、新たな道を歩み始めます。

後藤新平の支援を受け、読売新聞の経営権を買収し社長に就任したのです。

震災後の東京の新聞業界は壊滅状態にありましたが、正力は読売新聞を再建し、部数を急増させることに成功。

震災を契機にメディア界での地位を築いた彼は、後にプロ野球の普及やテレビ放送の開始にも尽力し、日本のメディア産業に革命をもたらしました。

一方で、震災時のデマ流布に対する反省や謝罪は曖昧なまま終わり、彼の功績と影の部分が共存する評価が定着しています。

正力の後年の回顧と評価

1944年、警視庁での講演で、正力は関東大震災時の虚報についてこう振り返っています。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」(『正力松太郎 悪戦苦闘』)。

この発言は、彼がデマの拡散に一定の責任を感じていたことを示唆しますが、具体的な謝罪や補償への言及はありませんでした。

歴史家の間では、正力の行動を「治安維持の過剰反応」と見る向きと、「意図的な差別扇動」と批判する見解が対立しています。

彼の警察官僚時代の経験が、震災時の判断に影響を与えたことは確かであり、その後のメディアでの成功も、震災後の混乱を逆手に取った戦略に支えられていたと言えるでしょう。

まとめ:正力松太郎と関東大震災の深い結びつき

正力松太郎は、関東大震災において警視庁官房主事として治安維持に奔走する一方、「朝鮮人暴動説」という虚報を広め、朝鮮人虐殺事件の遠因を作った人物です。

震災前は警察官僚として社会秩序の強化に努め、震災後はメディア実業家として日本の世論形成に大きな影響を与えました。

彼の行動は、当時の社会の不安や差別意識を映し出す鏡でもあり、その功罪は今なお議論の対象です。

関東大震災における正力の役割を知ることで、彼が単なる「成功者」ではなく、複雑な歴史的背景を持つ人物であることがわかります。

このエピソードは、自然災害が社会の暗部を露わにし、個人の決断が歴史を大きく動かすことを教えてくれる、深い教訓でもあるのです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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