【小田凱人】名前の由来は凱旋門!サッカー少年が癌を乗り越え世界最強になるまで

2025年、年末の紅白歌合戦。
審査員席に座る、ひときわ若い小田凱人(おだ ときと)さんの姿に驚いた方も多いのではないでしょうか。

19歳にして「生涯ゴールデンスラム」を達成し、世界の頂点に立つ彼ですが、実はもともと「プロを目指すサッカー少年」だったことは、あまり知られていません。
9歳でがんを患い、足の自由と夢を同時に失った絶望の淵から、どうやって「世界最強」へと駆け上がったのか?

その裏には、地元・一宮市で彼を支え続けた温かい家族の絆と、知られざる壮絶な努力があります。
今回は、テレビだけでは分からない小田さんの「生い立ち」から「現在の活躍」までを、ギュッと凝縮してお届けします

目次

名前とその由来:凱人(ときと)と凱旋門のつながり

小田さんのフルネームは小田凱人(おだ ときと)。読み方は「おだ ときと」で、2006年5月8日生まれの現在19歳です。名前の「凱人」は、フランスの有名なランドマークである凱旋門(Arc de Triomphe)に由来しているそうです。 凱旋門は勝利や栄光を象徴するモニュメントですが、小田さんのこれまでの活躍を見ると、まさにぴったり!

両親が海外旅行好きだった影響でこの名前がついたと言われていますが、彼が実際に名前の由来となった「パリ」の大会で金メダルを獲り、日本へ凱旋する。名前が運命を予言していたかのようで鳥肌が立ちますよね。地元では「ときとくん」と親しまれているようですね。

子供の頃の夢と試練|サッカー少年を襲った「骨肉腫」

今の姿からは想像がつかないかもしれませんが、小田さんの子供の頃の夢は「プロサッカー選手」でした。
地元である愛知県一宮市実家で育ち、小学生時代は地元のサッカーチームに所属。とにかく足が速く、フィールドを駆け回る活発な少年だったといいます。

しかし、9歳の時に運命が暗転します。
左股関節に見つかったのは「骨肉腫」という骨のがん。抗がん剤治療に加え、股関節と大腿骨の一部を切除して人工関節を入れる大手術を行いました。さらに肺への転移も見つかり、手術は合計で3回にも及んだそうです。

大好きだったサッカーを諦め、左脚の自由を失い、障害者として車いす生活へ。まだ9歳の少年にとって、どれほど過酷で辛い経験だったことでしょう。

ただ、小田さんはここで終わりませんでした。
入院中に主治医からパラスポーツを紹介され、YouTubeで見た車いすテニスのレジェンド・国枝慎吾さんの姿に衝撃を受けます。「これだ!」と思った彼は、退院後の10歳でラケットを握ることに。
練習拠点は隣県の岐阜県にある車いすテニスクラブ。実家から車で片道30分かけて通う日々がスタートしました。

実家・一宮市での「家族」の支え|厳父と慈母、憧れる弟

小田さんの快進撃を支えたのは、間違いなく家族の存在です。
家族構成は、父、母、姉、小田さん本人、弟の5人家族。

お父様はスポーツマンらしく、非常に熱い方だそうです。「お前ならできる」と信じているからこそ、負けた時には「なんでできないんだ」と厳しく指摘することも。小田さんはそれを「期待の裏返し」と前向きに捉え、あえて反骨心を燃やすことで自分のスタイルを確立していきました。

一方、お母様は縁の下の力持ち。岐阜への毎日の送迎や、テニス中心に回る生活リズムを全面的にサポートしてきました。家族旅行さえも小田さんの練習スケジュールに合わせる徹底ぶりだったといいます。

そして兄弟仲も抜群。特に弟さんにとって小田さんは「自慢の兄」であり、学校でも誇らしげに話しているそうです。お姉さんも含め、家族全員が一丸となって「チーム小田」として戦ってきた温かさが伝わってきますね。

経歴と学歴|通信制高校を選び、10代で「生涯ゴールデンスラム」へ

小田さんの学歴経歴を見ると、彼がいかに「テニスファースト」で生きてきたかが分かります。

  • 小学校:一宮市立瀬部小学校
  • 中学校:一宮市立西成中学校
  • 高校:N高等学校(通信制)
  • 大学:進学せずプロ活動に専念(2025年現在)

中学時代から本格的に頭角を現した彼は、高校進学時に「海外遠征に集中できる環境」として通信制のN高を選択。普通の高校生のような生活よりも、世界で戦う道を選びました。

その結果が、驚異的な経歴です。
14歳でジュニア世界ランク1位、15歳でプロ転向。
そして2023年、17歳で全仏・ウィンブルドンを制し世界ランク1位に。
2024年のパリパラリンピックでは史上最年少で金メダルを獲得。
さらに2025年には、全米オープン初優勝を果たし、弱冠19歳にして4大大会とパラリンピックすべてを制する「生涯ゴールデンスラム」を達成しました。

また、インタビューで驚かされるのが彼の英語力です。
海外遠征での実践を通じて身につけた英語は、コーチの通訳をこなすほど流暢。発音もネイティブ並みと言われています。机上の勉強ではなく、生きるためのツールとして習得した語学力も、彼の一流たる所以ですね。

まとめ:逆境を力に変えたニュースター

かつて病室でふさぎ込んでいたかもしれない少年は今、世界中が注目するトップアスリートになりました。
「勝つ人より、何かを変える人になりたい」
そう語る小田凱人さんの言葉には、苦難を乗り越えてきた人だけが持つ重みと希望があります。

2025年の紅白審査員として見せる笑顔の裏には、一宮市から岐阜へ通い詰めた日々や、家族との深い絆がありました。これからも彼の放つ一打が、世界中の誰かの勇気になっていくに違いありません。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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